~自由という幸せ~「希望を信じ続ける過程」とは「現実を確認するための過程」でもある。
正直、思っていた通りに進んでいない。
事業アイデアを形にして、実行して、現実に収益をあげる。
これは全く簡単に進んでいない。
うまくいっていないことは「現実」だが、ただ一つ言えることは、アイデアを考え、試作し、検証する過程、それを繰り返すことにものすごく楽しくワクワクしているということだ。
その試行錯誤の過程が自由である人ほど幸せだと思う。
例えば、「自分にはこれしか才能がないから。」と思う人は、武器が一つしかないのだからうまくいかなくても、一つの武器だけで戦い続けなければならない。一つの武器を極め、信じて、戦い続けることは強さでもあるが、逃げることのできない苦しい戦いになる。
一方、「自分には様々な可能性があるのでいろいろ試してみよう」と思える人は、一つうまくいかなくても他のアプローチをとることも可能である。そのほうが気持ちは楽だし、そうしていられるうちは幸せである。ただ、何事も深めたからこそものになるという面もあるわけで、表面的な試行錯誤で何かを生み出すことは難しい。
いづれにせよ、自分の自由な時間を自分が必要と思うことに充てられることはとても楽しく、充実している。
売れることを夢見る歌手や芸人の気持ちが少しわかった気になる。
自分が望む形で、社会から認められ、お金を稼ぐという輝かしい希望があれば、たとえそれがどんなに狭き門だとしても、そのビジョンを信じ続けられるうちはとてつもなく楽しい。
人間が生来望む「生き方」というものがどんなものなのか分からないが、このような状態を続けることができる事は確実に一つの幸せの形ではないかと思う。「希望」は人間に生きる力を与える。
そういう意味で、実家がお金持ちとか、金銭的な制約がなく夢を追い続けられる人というのは幸せなんだろうなと想像する。まぁ、お金持ちにはお金持ちなりの悩みや制約があるだろうし、彼らが何を幸せとするのかはわからないが・・・
一般の人にとって「希望を信じ続ける過程」というのは、「現実を確認するための過程」でもある。
6年10カ月のサラリーマン生活の中で、私なりに自身の欠点と向き合ってきた。配属された部署になじみ、必要なスキルを身につけ、仕事における目標を達成するために間違いなく努力してきた。
しかし、入社時から心の中にはいつも、私はここにずっといるわけではない。やるべきことがあるのだ。ここだけが私の居場所ではない。もっとできる事があるし、輝ける場所があるのだという思いがあった。
一生懸命やっていたつもりでも、その「希望」がどこかで真剣に仕事に向き合えない自分を生み出していたように思う。
私は今、仕事を辞め、自分の時間を思い通りに使える。これまでの「言い訳」のすべてを実行できる環境にある。私の貯蓄が許す限り、私は「希望」をもって、ビジョンを信じ、追い求めることができる。
この環境は私に間違いなく「幸せ」を感じさせている。
と当時に、この自由な時間をもってしても、ビジョンを現実化できなければ、「ビジョンはビジョンに過ぎなかった。」という現実を受け入れなければならない。
現実を受け入れるということは、「言い訳」をすることができないということである。
私がサラリーマンに戻るとき、もう以前のように「私がやりたりことはここにはないのだから」と言い訳することはできない。サラリーマンにおいて何を達成するのか、新しい目標の設定を迫られるだろう。言い訳できた過去と、言い訳できない未来では言い訳できない未来のほうがより苦しいとも思う。
だけれども私はこの道を選んでいることに一切の後悔はない。
多くの場合、現実を直視して、それを乗り越えた先にある実りは大きいと思うからだ。
現実を受け止めず、自分の実力や実際にのぞむ欲望から目を背けていては、いつまでも変われない、覚悟が決まらない、成長できない、欲望を達成することができない。
だが今私は、「希望を信じ続ける過程」にあり、この過程は大きな「幸せ」を実感させるものである。この幸せを明確に感じとれていること自体人生における大きな収穫だと思う。
同時にそれは、「現実を確認するための過程」でもあり、この過程が終了するとき、現実と対峙する瞬間が訪れる。
現実はともすれば辛いものになるかもしれない。
だがその時、まず私に必要なのは現実に向き合うことで、その現実をもとに、次の向こう10年をどんな覚悟をもって生きるのかを決めることになる。
決めたことに対して、言い訳なしにそれを実行できるのか、そこで初めて自身の真価が問われるように思う。
その施策の第一段階にある。この幸せを感じられる時間を大切に、行動を続けたい。